「春だ、と今さら気づいたかのように思った。
薄桃色の桜が頭上を覆い、その向こうに澄んだ青空があり、目線を落とせば、道端
には黄色い菜の花が風に揺れていた。家々の庭からは、れんぎょうが、パンジーが、名も知らぬ色とりどりの花が、私を見送るように顔をのぞかせている。
春だった。視界のすみずみまで、春だった。
すべてがいきいきと発色し、動き出し、弾け、混ざり合い、車窓が映す何もかも、
ゴミをあさるカラスも、酒の安売り店の看板も、アスファルトにひかれた白い横断歩道も、二階の窓にひるがえる洗濯機までも、今このとき、ただしい色合いでただしい場所に配置されていると思った。
なんて美しいんだろうと、後部座席で呆けたように私は思った。
この道は今まで何度も通ったことがある、ひとりで、もしくは夫と二人で。
それなのに、私は何を見ていたんだろう。まるで目を閉じて歩いていたみたいじゃないか。
目を開いてみれば、こんなにも美しい世界が飛びこんでくるというのに」



角田光代『Presents』より


女の人が一生のうちに貰うプレゼント-----名前、ランドセル、初キス、ウエディング
ベール、鍋セット、うに煎餅、などなどをテーマにした12のお話。
この文章の人は陣痛で病院に向かっている最中。
春に生まれたから春子やったかな。
その単純な名前がずっと好きではなかったのだけど、子どもを産もうとする痛さの中窓の外を見てみれば、春ってこんなにきれいじゃないか、お母さんも痛いのを
頑張って私を産んだ時にそう思ったのかなあ、というお話。
誰かに何かを貰ったり贈る時って、何か胸がむずむずふわふわ温かい。
物は問題ではなく、気持ちが真心のときにこそ。